プジョーで訪ねた灯台訪問記、今はアクアGRスポーツで

主に沿岸灯台の訪問記です。根元到達を目標にしています。   ★ タイトルバックは隠岐諸島 西郷岬灯台 ★

灯台あれこれ

地図では「〇〇崎」となっていても、灯台名は「〇〇埼灯台」というように、土へんの「埼」が使われています。
「御前崎市」にある有名な灯台も、「御前灯台」ではなく「御前灯台」と記されています。

余談ですが、読みも「御前崎市」は「オマエザキ」と濁りますが、「御前埼灯台」は「オマエサキトウダイ」と濁りません。どうも、灯台名に付く「埼」は、濁りの無い「サキ」と読むのかなと思います。



今頃になって、やっとについて調べてみました。

 
情報元は、海上保安庁海洋情報部のHPにある「海の相談室FAQ集」です。
以下は、ここからの抜粋です。


 「埼」と「崎」のことですが、海図では海洋に突出した陸地の突端部の名称としての(Saki)は、おおむね土へんの「埼」を用いています。例えば、東京湾付近では地図帳などには野島崎・観音崎・剱崎と「山へん」で記載されていますが、海図には「土へん」で野島埼・観音埼・剱埼と図載しています。

 土へんの「埼」は、陸地(平地)が水部へ突出したところを表現し、山へんの「崎」は本来の意味として山の様子のけわしいことを言い、山脚の突出した所を示しており、平野の中に突出した山地の鼻等を言う意味なので、海洋情報部では漢字の意味からも地形が判る土へんの「埼」を採用しています。

 なお、「みさき」の地形を表わす名称には「埼」のほかに「岬」、「碕」、「角」、「鼻」があり、まれに「岬」を(Saki)と読む場合もあります。

 海洋情報部は、明治時代の海軍水路部のころから、土へんの「埼」を海図に採用してきました。これは、埼、崎、岬で地形の意味を表現するために使い分けをして、海図の使用者である航海者が地名から地形が判断できるようにしていました。たとえば、野島埼は、「野島」が地名を表現し、「埼」がそこの地形を表現していると考えると判り易いと思います。


灯台のない頃は、山の頂や岬の突端などの自然のものを目印にしてきました。しかし、船が大きくなり航海術が発達してくると、遠いところへ出かけるために確実な目印が必要になってきました。
そのために、岬や島の上に石で塔を建て、焚火をしたり煙を上げて船の目標とするようになったそうです。これが灯台の始まりと言われています。



日本では江戸時代になると、「かがり屋」とか「灯明台」と呼ばれる石積みの台の上に小屋を建て、その中で木を燃やすものができたそうです。


明石港には、明暦3(1657)年頃に5代藩主松平忠国によって造られたという、波門崎燈籠堂が残されています。(2015/10/5撮影)
この旧灯台は国の登録有形文化財に指定されており、現存する日本の旧灯台のうち、設置年代は2番目に古く石造では最古で、昭和38(1963)年まで使用されていたそうです。

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西洋式灯台の始まりは、1866年にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ改税約書(租税条約、江戸条約)で8ヶ所、1867年に神戸開港に備えイギリスと結んだ大坂約定(大坂条約)で、5ヶ所の灯台を整備すること約束したのが始まりです。


当時の日本には技術も設備もなかったので、フランスとイギリスに灯台のレンズや機械の購入、技術指導を取り決め、その頃徳川幕府の体制が終わったので、明治政府がこの仕事を引き継ぎました。
明治2年1月1日にヴェルニーというフランス人により、神奈川県三浦半島の観音埼に、日本で初めての西洋式灯台が誕生しました。

フランス人の作った灯台は東京湾の周りの4か所(観音埼、野島埼、品川、城ケ島)だけで、それ以降は、リチャード・ヘンリー・ブラントンが率いるイギリス人によって作られたそうです。ブラントンは、灯台を26か所に建てたそうです。


江戸条約の8カ所の灯台は以下です。

観音埼灯台(初点1869年)
野島埼灯台(初点1870年)
樫野埼灯台(初点1870年、現役、1954年に灯火を嵩上げ、2002年に螺旋階段を設置)
神子元島灯台(初点1871年、現役)
剱埼灯台(初点1871年)
伊王島灯台(初点1871年)
佐多岬灯台(初点1871年)
潮岬灯台(初点1873年、1878年に現在の石造りに改築)


大坂条約の5カ所の灯台は以下です。
江埼灯台(初点1871年、現役)
友ヶ島灯台(初点1872年、現役)
部埼灯台(初点1872年、現役)
六連島灯台(初点1872年、現役)
和田岬灯台(初点1872年、1884年鉄製に改築、1963年に廃灯となり須磨海浜公園に移設、保存)


まだ灯台に興味のなかった2015/5、たまたま行った須磨海浜公園に移設保存された和田岬灯台です。
唯一残っていた写真に写っているのは上半分くらいですが。
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